「ちゃんと」ご飯を食べられるようになりたい

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私は「ちゃんと」ご飯を食べられなくなって長い。始まりはいつだったのだろうとよく考える。風俗で働く自分の気持ち悪さを忘れるために食に逃げた。姉に取ってもらった写真の中で、はしゃぐ自分を見て醜いと思った。ヨーロッパ旅行で好き放題食べて太っていた。リゾートバイトの同僚たちに容姿のことで馬鹿にされた。留学先で友達がいなくなってさみしさを埋めるように自室でこそこそ隠れてやけ食いをした。ベジタリアンになって何を食べるにも原材料を凝視しなくてはいけなくなった。

どう思い返しても、少なくとも2019年ごろからの3年くらいは純粋に食事を楽しむということが難しかったように思う。

でもそれ以前の幼少期から考えても食べ物との関係性はずっと良好だったとは言い難い。何歳か定かではないが小学校に上がる前に母親の注意を惹きたくてプリッツを吐き出した記憶がある。それ以外にもお腹が膨れても口に詰め込んでトイレで吐き出したり、食べたい気持ちを抑えきれずに家中のものを食べつくしたり、一日一個と決められているアイスを家族の目をこっそり盗んで食べたり、食に対する執着が気持ち悪い。

自分の容姿ないしは自分自身を認めてあげられなくなったのも早かった。他人に映る自分の姿を気にした最初の記憶は小学一年生の時だ。図工の授業で新聞紙で野菜を作る授業があった。クラスメイトは先生のお手本通りサツマイモを作っていたのに、私だけ枝豆を作って緑に塗った。授業参観の時に作品が廊下に飾られてそれを見ていた母親たちはこの子の作品だけみんなと違うと笑ったのだ。私の母もその時そこにいた記憶があるのだがどう反応したか正直覚えていない。ただひとつ確かなのは守ってもらえた記憶がないということだけだ。自分はどこか人とずれているのかもしれない,そしてそれは恥ずかしいことだと初めて認識した.

私は自分の容姿自体は平均から見てそこまで酷いものではないと思っているけど,「自分」というものに対して自信が持てない.ガウタマ・シッダールタが「天上天下唯我独尊」天の上にも下にも「私」という存在のみが尊いと言ったのならば,その「私」という存在をただ認められない人間がいてもおかしくはないと思う.私と同じ学歴,家族,容姿,性格の人間がいたとしてその人を客観的に見たのならば私はきっとその人の良いところを見つけられる.それなのに私は私であるがためにこの同じスペックを持った人間を愛することができない.

だから私は食べ物を吐き散らかしてBMI16以下をキープして,不健康にも痩せているのに今はもう体重を増やすことが許せない.でも食べないという選択をするには食べることに執着しすぎている.きっと私が自分を愛することができたなら,普通になれたのだろうと思うのに.