20220914

another day 

また今日も辛い辛いと自分を憐れみながら一日を過ごしてしまった。会社から与えられたら課題図書にUSJマーケティングを担当している人の著書がある。1972年生まれ、御歳50歳。私の母と同級生だ。彼は24歳でグローバルカンパニーに入社し、32で渡米。45で独立したようだ。正直言って心底羨ましい。言ってしまえばこの本を読まなければよかったと思うくらいに嫉妬で満ちている。加えてこの男、彼の口振りは相当悪くて、まるでマーケターにあらずんば人にあらずとでもいうかのような表現をする。ひいてはローテク産業の開発を「誰でも作れる」とまで言い放った。開発者に対するリスペクトは微塵もないのかと疑ってもonly reasonableとしか言えない。とにかく私はこの本が嫌いなのだ。なによりも私は焦っている。やることがない。自分のキャリアが進む感覚がない。辛い。何のために私はここにいるのだろう。そんなことを考えて一日が終わる。もちろん満足もいかないから食べて気を紛らわせて夜更かししてどうにか何かした気分になろうと必死こいている。かわいそうに。

周りの人も私のネガティヴさに嫌気がさす頃かと思ってしまう。一日を生きるのが本当の辛い。it's a work just to live a day 

「ちゃんと」ご飯を食べられるようになりたい

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私は「ちゃんと」ご飯を食べられなくなって長い。始まりはいつだったのだろうとよく考える。風俗で働く自分の気持ち悪さを忘れるために食に逃げた。姉に取ってもらった写真の中で、はしゃぐ自分を見て醜いと思った。ヨーロッパ旅行で好き放題食べて太っていた。リゾートバイトの同僚たちに容姿のことで馬鹿にされた。留学先で友達がいなくなってさみしさを埋めるように自室でこそこそ隠れてやけ食いをした。ベジタリアンになって何を食べるにも原材料を凝視しなくてはいけなくなった。

どう思い返しても、少なくとも2019年ごろからの3年くらいは純粋に食事を楽しむということが難しかったように思う。

でもそれ以前の幼少期から考えても食べ物との関係性はずっと良好だったとは言い難い。何歳か定かではないが小学校に上がる前に母親の注意を惹きたくてプリッツを吐き出した記憶がある。それ以外にもお腹が膨れても口に詰め込んでトイレで吐き出したり、食べたい気持ちを抑えきれずに家中のものを食べつくしたり、一日一個と決められているアイスを家族の目をこっそり盗んで食べたり、食に対する執着が気持ち悪い。

自分の容姿ないしは自分自身を認めてあげられなくなったのも早かった。他人に映る自分の姿を気にした最初の記憶は小学一年生の時だ。図工の授業で新聞紙で野菜を作る授業があった。クラスメイトは先生のお手本通りサツマイモを作っていたのに、私だけ枝豆を作って緑に塗った。授業参観の時に作品が廊下に飾られてそれを見ていた母親たちはこの子の作品だけみんなと違うと笑ったのだ。私の母もその時そこにいた記憶があるのだがどう反応したか正直覚えていない。ただひとつ確かなのは守ってもらえた記憶がないということだけだ。自分はどこか人とずれているのかもしれない,そしてそれは恥ずかしいことだと初めて認識した.

私は自分の容姿自体は平均から見てそこまで酷いものではないと思っているけど,「自分」というものに対して自信が持てない.ガウタマ・シッダールタが「天上天下唯我独尊」天の上にも下にも「私」という存在のみが尊いと言ったのならば,その「私」という存在をただ認められない人間がいてもおかしくはないと思う.私と同じ学歴,家族,容姿,性格の人間がいたとしてその人を客観的に見たのならば私はきっとその人の良いところを見つけられる.それなのに私は私であるがためにこの同じスペックを持った人間を愛することができない.

だから私は食べ物を吐き散らかしてBMI16以下をキープして,不健康にも痩せているのに今はもう体重を増やすことが許せない.でも食べないという選択をするには食べることに執着しすぎている.きっと私が自分を愛することができたなら,普通になれたのだろうと思うのに.

自分が何者かもわからないし決めたくもない不安定な者の日記

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fluid [形] 流動的な

2019年,私はオーストラリアにいた.

そこでジェンダーの話になった時に誰かが説明してくれた.

性別は流動的でいいのだと.

 

私は女の子である,と自認している.

持って生まれた身体も女性のそれであるので,シスの女の子だ.

なぜわざわざ「自認している」という書き方をするのかというと,私は持って生まれた身体の条件や,他人の私に対する扱い方で,女の子であると決めたのではなく,

自分で女の子であるということに対して腑に落ちているということを示したかったから.

では,女の子であるということはどういうことか考えると,

男性にお姫様のように扱ってもらいたいとか,

メイクやお洒落を目一杯楽しみたいとか,

ニコニコして可愛いと言われたいとか,

泣いていたら女々しいではなく,か弱いと思われたいとか

そんなジェンダーバイアスでしかないようなことばかり思い浮かんでしまう.

 

でも私にとって女の子であるということは

他者との関係によって確立されるものではなく,

もっと内在的で自負するためのことでしかないのだと思う.

例えば,私は23歳であるというのと変わらない.

それによって周りの人が感じる価値とか期待とかは関係なく,

私が生まれてきてから23年経っていてその時の流れを感じているというのにすぎないように,

私は自分が女の子だと感じている.

それ以下でもそれ以外でもない.

 

でも性別は流動的なものだから,

今は女の子であると私は思っているけど

いつか私は女性であると思うかもしれないし,女の人であると思うかもしれないし,

はたまた全く異なる性別で自認するかもしれない.

それはそれでいいと思う.

 

今回は私の性別について書いてみた.

私は私の中で不確定な要素が多すぎて,私は自分をどの枠に収めていいかわからなくなることが多々ある.

でも誰かに理解されるために簡単な言葉の枠に分類して自分がどうあるべきか考えているとまるで自分が自分で無くなってしまうような気がして怖い.

同時にとてもつまらない人間になっていくことが感じられる.

男性を悦ばせる仕事をしていた時,私は自分の心がポキポキと折れていく音を聞いた.

今,自分がつまらなくなっていく,私の心がミュートされていく音を感じる.

 

確か,映画『アメリ』の冒頭で登場人物の紹介をする時に

彼らが好きなもの・嫌いなものを挙げていくのだが

ただありきたりな,例えば趣味は登山とか分かりやすいものではなく

彼らの心が何を感じた時にどう動くのかが感じられるような説明をするのだ.

私はその演出を見てとても豊かだと感じた.

このブログはそんなブログにしたい.

私の心がどう動くのかを単純なわかりやすい言葉に置き換えるのではなく

的確に感じられるような言葉を尽くしたい.